仙台七夕 花火大会
また、八月がやってきた。
特別な事がない限り、毎年花火を見に行く。
混み合うので、早めに出かけて、メディアテークの近くの駐車場に車を止めて、暑さから逃れるために、メディアテークに入っていく。
てつがくカフェ「震災を〈記録〉するということ」(要約筆記つき)
という、イベントやっていた。
これは、正面のスクリーンにWEBサイトが映っていた。すぐに、ワードプレスだと思った。
席が空いていたので、大変恐縮ではあったけれど、座る。
記憶と、記録を定義するとか、難しい事を議論していた。
ぼんやりしながら、自分なりに考えていた
記憶は、人間が獲得したもっとも高度な情報処理システムだと思う。
だってさ、スイカの香りがすると、夏の夕暮れを思い出したり、リズムを聞くと、ある時の体験を鮮明に思い出す事の出来る
検索エンジンだぜ、
そのシステムは、それぞれの人間固有で、簡単に共有する事出来ないほど複雑なのに、人間は、それを簡単にやってのける
記録は、人が作る情報の塊に過ぎない。5w1hとか属性を持っていて、グループを作ったりする。これは、みんなで共有できる。
記録は、物事の総体を表すことなんか出来ない。
記録は、複雑な事は出来ない。(だって、そんな複雑な事設計できないだろ)
記録は、森の中の木や、草木の葉の一枚や、それよりもっと小さい断片のようなものなんだと思う。
では、それらの断片によって、森をみたり、草木の全体像を見たりすることは出来るのだろうか?
記録と記録が結びついていく、リレーションシップがそれをになうのだろうと思う、
インターネットでは、タクソノミやカテゴリ、クエリ、など、フィルタしてグループを浮かび上がらせる機能なんだろうと思う。
どう考えても、記憶にかなうとは思えないが、
ハイパーリンクとその設計は、大事だ
震災以来、震災を扱うWEBサイトでは、災害の惨状を伝える動画や、写真などが、大量にアップロードされた。
震災当初、その場所がどのようになっているか情報を取得しようとするエネルギーが、それらの画像に対するアクセスを支えていたと思う。
私には、震災後、時間が経過する中で、これらの写真は、整理される事もなく行き場を失っているように見える
誰でもアップロードできるタイプの画像とマップが結びついたようなサイトの一部は、残念さを感じる事もある。
失われたのは、3.11以前の事柄であるにもかかわらず 3.11以前の画像や動画を含めてアーカイブしていく視点を持ったプロジェクトは、なかなか見つける事が出来ない。
失ったのは、3.11以前の全てで、これから風化するとすれば、それらの記憶
日の暮れ始めた頃、西公園内で、焼き鳥とビール 1,400円 カキ氷(練乳)400円 を散々並んで購入。
駐車場代800円なり、
明日は、あの 8月6日